大野厚嗣 Digital Gallery

2019/1/1



平成が終わる新しい時代を迎えるにあたりここに書き綴ります。
人の評価を必要としない、一個人の考えとして。


星の数ほど居る表現者の中で、本当に評価される者はどれほどいるのか。
表現者とは絵画や物づくりに限らず、あらゆる発信者の事。
礼儀を無視し、茶化された言葉に群がる場は本当の居場所ではない。
労働では真に望むやるべき事を生業にしている人もごく僅かに思え、それが自分にとって何であるかが見出しきれずに時間を浪費してしまっているという現実。そこから娯楽を優先する時間の使い方も当人が望むならそれが正解なのだろうと思う。
自分にとって生業とは現状が正しいとは思っておらず、突き抜けた一点を支える生活全てを含めると思っている。

絵画に関してはまだまだ出口の見えない画業の途中で、そもそも絵画の存在意義とは?を考えるようになった。作り手として、収集者として。
あらゆる物がデジタル化され、多くの「less化」が進んでいる。物ではなくデータに価値が付く時代。
ただ、美術品に関していえば、データ化された作品に高い対価を払う考えは起こらないと思っている。
実物に対価を見出す価値観はデジタル化が進もうとも人間には潜在的にあるもので、それらは信仰時に良く表れている。例えば神社仏閣で本殿や本尊参拝時よりも、御守り等の形ある授与品へ初穂料を納める人が多い。
情報やお金等の日々流れる物は実体の無いデジタルの方が利便を図れる。だが、それは全ての物に当てはまる訳ではない。絵画でいうと、デジタル作品は情報という概念に近く、アナログな実体ある作品は美術品という概念に当てはまると思う。
美術品が販売促進されない背景には「情報」として作品を観ている人が多く、実際に手にするまでもないところで完結してしまっているからだろう。
これを悲観する必要はなく、実物を手に入れたい収集家は少数ではあるが居るもので、美術市場は世の中の数パーセントの人間によって成り立っている。
その中で需要の高まる作家もいれば、その逆もある。
自分は日本画を観るのが好きで掛け軸を何本も収集しているが、描かれた当時に売買された価格よりも値下がっている作品も多い。掛け軸は床の間に掛けるのを主としているが、今の住宅には床の間が無い設計が多い事が一つの要因であると思う。
こうした話は大きくとらえると、かつての活気を失った商店街にも似ている。他に需要が生まれ、多くがそこへ流れていく。人口減少や消費欲の低下もそれに拍車をかけている。
しかし、これらは物が売れない原因ではあるが、断絶に至るわけではない。

通信技術の発達と端末の普及により、国を問わず多くの人とコミュニケーションがとれるようになった。ただ、その波に上手く乗れているのも一部にすぎないように思う。ここで言う「波に乗る」とはSNSを使いこなす事ではなく、ネット上の繋がりと仕事を含む実生活の繋がりを上手くコントロールしている事をいう。
どちらもバランス良くこなすには難しい面があり、割り切る事も時には必要なのかもしれない。
情報過多の現代、いかに取捨選択できるかが課題であり、それらをどう咀嚼するかによって選ぶ道、進むべき道が大きく異なってくると思う。
こうして得られたかに思っていた自由は、選択肢が増えた事による不自由さも併せ持つ事が良く分かる。

30歳を過ぎ、日本各地へ行くようになった。その理由として「あらゆる物事が有限である」と知った事が大きい。自身の体力、そしていつまでもそこに存在しているとは限らない場所。全てにおいて限りがある。写真の記録と自身の記憶、20代はこの考えが欠落していた。
こうして多くの景色を見てきた経験が絵画とリンクされる日は近いようで遠く、活路を見出すにはまだまだ時間が掛かると思うが、ここでも自身の有限が付きまとう。
そしてこれらを導くのが先に出た、選択された情報とその咀嚼となる。

時代を問わず人の普遍的な課題が「幸福」。
今、幸せか?の問いに対し、どれだけの人が頷く事ができるだろう。
人によって幸せの物差しが異なるので一概には言えない。ただ、欲求を満たせている環境が幸福かと言えば、自分は違うと思う。残念ながら、世の中には恵まれた環境にいて不自由のない生活を送っている人でも不幸せだと感じる人はおり、不自由な生活の中にも幸せを見出し充実した生活を送っている人もいる。
この違いはどこで生じるのかというと、感受性にあると思う。感受性に乏しい人に何を与えても、どんな環境においても幸せを見出す事は難しいように思う。こうして考えると感受性の欠乏と欲は比例しているようにも思えるが、欲深い人は物事や相手の欠点を見出す事に長けているのではないだろうか。その欠点に囲まれ生活している自分は幸福ではない、と思い込んでいるように見える。
少なくても平成という時代は「幸福」を考えるには十分な時間があったかもしれないが、見出せた人はどのくらい居るのだろう。


ここまで綴ってきた自分も、見出せていない事はまだまだ多く、同時に知らない事もまだまだ多い。
更なる成長を望むなら縛っていた紐を切る覚悟も必要で、甘えのぶら下がりは通用しない。

表現するなら黙殺に耐えろ

時代は変わっても普遍的な共感できるわずかな点を求め、作者として線を引き続ける。
移ろいやすい人の心を理解したうえで続けていれば、きっとまた会えるだろう。

新しい時代になっても、やるべき事は大きく変わらず、手法や選択が変わるだけだ。

未来は明るいと信じたいが、きっとそれは華やかさではない。

限られた時間の中で、そこへ向かう姿勢は崩さないよう、高潔な晩年に憧れを抱きながら。




2019年1月1日